吉野材について

  • 年輪幅が狭く、均一である
  • 幹は真っ直ぐで完満
  • 節のない材
  • 色艶が良く光沢にとんでいる

吉野杉

  • 淡紅色で色艶がある
  • 年輪幅が狭く、均一
  • 爽やかな香り

吉野桧

  • 色艶が良く光沢にとんでいる
  • 年輪幅が緻密で、均一
  • 気品のある清々しい香り

吉野材の歴史

 吉野地方では、1500年頃(足利末期)に造林が川上村で行われた記録があります。

 吉野材が多量に搬出されるようになったのは、天正年間(1573〜1593)豊臣秀吉が当地を領有し、大坂城や伏見城を始め、畿内の城郭建築その他社の普請用材の需要が増加し始めた頃からです。





 江戸時代(1603〜)初期には大阪で木材問屋が成立し、木材市場が開かれました。河川の開削・整備が進み吉野川(紀ノ川)を利用した筏流しにより和歌山港まで運ばれるようになると、天然林の伐採だけでは不足し、また需要の増大により人工植林が盛んに行われるようになりました。
 この発達の過程において借地林業制度、山守制度などが発達しました。

吉野林業 中興の祖

 明治期に活躍した林業家・土倉庄三郎(どぐら・しょうざぶろう)は、造林法をまとめた『吉野林業全書』を刊行しました。
 自らも約9000ヘクタールの山林を経営し、自分の財産について「3分の1は国のため、3分の1は教育のため、3分の1は仕事のために使う」という方針をつらぬきました。

土倉庄三郎

 吉野式造林法を全国各地(群馬県伊香保・兵庫県但馬地方・滋賀県西浅井町・台湾など)にその技術を広めると共に、自らも植林事業を進め、奈良公園の改良、吉野山の桜の保護を行い、吉野川の改修や道路の開設・改修を進めました。
 私費により小学校を開設し、新島襄が創立した同志社英学校(現在の同志社大学)や日本女子大学校(現在の日本女子大学)の設立資金を寄付しました。
 明治初期、自由民権運動に資金を援助し、政治家にも多額の献金を納め、社会的にも有名な人でありました。
 1900年、当時の首相(山縣有朋)から還暦祝として樹喜王の称号を贈られました。

吉野材の特徴

  • 年輪幅が狭く、均一である
  • 幹は真っ直ぐで完満
  • 節のない材
  • 色艶が良く光沢にとんでいる

吉野材の特徴である年輪幅が狭く、均一で、幹が通直・完満で節のない木材を生産する為には、植える苗を密植し、丁寧な育林を長期間おこなう必要があります。
江戸時代中期からこのように生産された材は、酒樽などの樽の材料として加工されました。 年輪幅が狭く、均一で節のない材は水漏れをおこさず、色艶・香りが良い吉野材は、酒樽として重宝されました。
奈良県から近く、酒造が盛んな兵庫県の灘や伊丹、京都府伏見などに出荷されました。

奈良県吉野地図

吉野材が良材である理由

長い歴史 育まれた林業技術 恵まれた自然環境

  • 極端な密植
  • 枝打ち技術
  • 弱度の間伐を数多く行う
  • 長い期間育てる
  • 日本でも有数の多雨地帯
  • 適した土壌

極端な密植

1ヘクタールあたり8000本~12000本という、高密度の植栽を行うことで、年輪幅が細かくて均一な材を育成しています。

吉野林業 一般的な林業地
苗木の本数 10000本 3000本
苗木の間隔 1m 1.8m

優良な木から種を取り2~3年間畑で育ててから山に植えます。
適切な地味判定が行われ、杉・桧の混植を行います。水が集まり過湿で肥沃な谷には杉、中腹は桧、やせ地の尾根は桧を植えるか、雑木を残します。
若齢期にお互いの競争によって樹冠が上に伸びるようにして、 下枝を細くして枝打ち後の木へのダメージを抑え、枝打ち痕の修復を早めることで、変色のない無節材を作りあげます。
林地を早くウッ閉さすことにより、雑木、下草の成長を抑え下刈り作業を少なくします。
杉の細い枝は自然に枯れ落ちます。密植することで下枝を枯らし、自然に落とし、また間伐の衝撃で枝を落とします。

枝打ち技術

表面に節が現れない無節材を生産するために枝を切り落とします。
樹木の太さがビール瓶程度の太さ(直径72㎜)になるまでに枝を切り落とします。
樹木が9~13年生程になると背丈の高さ(2メートル程)まで枝を切り落とします。梯子を使わず枝を切り落とすことをひも打ちと呼んでいます。
樹木が15年生程になると4m程まで枝を切り落とし、木の成長を見て1回の枝打ちで1.5~2m枝を切り落とします。3~4回の枝打ちで地面から枝まで6~8mまでの枝を切り落とします。
枝打ちを行う季節として、10月~3月の樹木の成長休止期に行います。4月~9月までは、樹木の成長期でこの時期に枝打ちすると樹皮が剥げやすく、このため傷口が大きくなる恐れがあります。 また、1月から2月上旬にかけての生長休止期ですが、非常に厳寒期で、この時期の枝打ちは 傷口の凍ることもあって、切り口面に割れを生じたり、形成層が侵されるなど、巻き込みの遅れる原因ともなります。

弱度の間伐を数多く行う

間伐とは、樹木が成長するに従って、枝・葉が込みあってきて日の光が当たらなくなり生育不足となることを防ぐために、一部の樹木を伐って間引くことです。
間伐すると樹木は大きく成長しますが、年輪幅も広くなってしまいます。
年輪幅を狭く一定にするために1回の間伐で間引く樹木を少なくして、複数回に分けて行います。

長い期間育てる

昭和初期まで吉野林業は、樽や桶の材料を生産することを一つの目的としていました。樽や桶の材料は60年~100年生の年輪幅が均一で狭く、節のない杉が必要でした。 そのため昔から長い期間育てる高伐期施業が行われていました。
今日、樽や桶から生産目的が住宅建築用材に変わっても80年~150年ほど育てる施業が行われています。
長い年月の撫育により、無節で年輪幅が狭く均一である大径木から、銘木・高級優良建築用材という特殊な材が産出されています。

日本でも有数の多雨地帯

奈良県と三重県との県境にある大台ケ原は、屋久島とならぶ日本でも最も雨の多い地帯です。
大台ヶ原は紀伊半島の南東に位置しており、熊野灘までわずか20km足らずの距離で、標高差1,500mの斜面を形成しています。
台風の時期には、太平洋の湿気をたくさん含んだ風が熊野灘からこの斜面を吹き上げられ、急速に冷やされて雲ができ、大雨を降らせます。
吉野山地は、東から大台ケ原を主峰とする台高山脈、南は八経ヶ岳を最高峰とする大峰山脈、西の伯母子山地の3つの山脈を形成しています。 標高1915mの八経ヶ岳を筆頭に1000mから1900mの山岳が連なり、大台ケ原に代表されるようにとても雨が多く樹木の生育に富んでいます。

適した土壌

地質は秩父古生層で燐酸加里・珪酸塩類に富み、土壌は保水と透水性が極めて良好です。

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